ネット広告人のための広告業界史③日本のコピーライティングの250年

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こんにちは。林田です。連載3回目。過去の記事は以下をご覧ください。

  1. 20世紀アメリカの運用型広告
  2. ブランディング広告の100年

今回は日本のコピーライティングを振り返っていきましょう。
まず、クイズを一問。

Q. 日本で広告が始まったのはいつか?

この問いの答えは、「広告」という言葉がどのように定義するかによりますね。八巻俊雄著「日本広告史」(日本経済社編 1992年刊行)によれば、文献として残る最初の広告についての記述は、奈良時代にあります。
701年の大宝律令にある関市令の十二条に、以下のように記されています。

“凡市。毎肆立標題行名”

現代語訳すると、「市は、肆(≒店舗)ごとに標を立てて名前を示すこと」といった感じでしょうか。

FujiwaraFuhito

大宝律令の選定に携わった藤原不比等(659-720)

日本で「広告」という言葉が初めて使われたのは、1883年の時事新報に掲載された福沢諭吉による「商人に告るの文」と云われます。しかし、日本で「広告っぽいこと」が行われて歴史は、それよりもはるかに長いことがわかりますね。

さて、やっと本題です。

平賀源内(1728-1780)

 

日本のコピーライティングを振り返ったとき、その先駆として必ず挙げられるのが平賀源内です。
源内は一般にエレキテルの発明者などとして知られますが、広告史のなかでは「土用の丑の日」の発案者として知られます。
「土用の丑の日」は、源内が友人の鰻屋のために、本来なら鰻が売れない季節である初夏(鰻の旬は冬)に売るために広めたキャンペーンと云われます。バレンタインデーでのチョコレートや節分の恵方巻きの先駆であり、200年以上に渡って親しまれてきた歴史的広告キャンペーンと言えますね。

また当時のコピーライターの役割を担っていたのは、源内や式亭三馬、山東京伝など、戯作者(大衆小説作者)が主だったことは特筆すべきでしょう。

 

片岡敏郎(1882-1945)

 

続いて片岡敏郎です。近代コピーライターの草分けとして知られます。
当時、江戸期より続いてきた戯作者のコピーや美文調のコピーは衰退し、西洋のアール・ヌーヴォー、アール・デコの流れを汲むグラフィック中心の広告が主流となっていました。
そんななか片岡は、「なんとまァ おきれいなお歯・・と逢う人ごとにほめられて スモカ使うのわたりもういやッ!」といった滑稽なコピーで一斉を風靡しました。その人気は高く、彼が携わった新聞広告には普段新聞を読まないはずの子供たちすらも夢中になったと云われます。
片岡のコピーライティングは壽屋(現サントリー)の後輩である開高健らに受け継がれ、現代の日本のコピーライティングに大きな影響を与えています。

 

糸井重里(1948-)

マルチタレントとしての活躍や、ゲーム「MOTHER」シリーズのディレクションなどでも名高い糸井重里は、昭和後期から活躍するコピーライターでもあります。
戦後、藤岡和賀夫や石岡瑛子らの登場により、広告は「商品を売るメディア」から「価値観を売るメディア」へと変化していました。その潮流における一つの到達点が、糸井重里と言えるでしょう。
その代表作がセゾングループ西武百貨店の企業広告「不思議、大好き。」。近代合理主義や高度経済成長のなかでの人間らしさを問うコピーは、多くの共感を呼びました。

 

福里真一(1968-)

最後に、現代に一線で活躍するコピーライターの一人として福里真一を挙げておきます。
福里は、2000年のジョージア缶コーヒー「明日があるさ」キャンペーン、2006年のサントリーBOSS「宇宙人ジョーンズ」キャンペーン、2009年のトヨタ自動車「こども店長」キャンペーンなどを手がけました。
憎めないキャラクターとヒューマニズム溢れるストーリーは、バブル崩壊後の日本人の心を捉えています。

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